つたをたつ

ゲームや映像媒体等娯楽についてのブログ。たまにエッセイも。

逝った猫に捧……げない、飼い主の心情と猫が死ぬ様子についての記事

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ペットはいずれ死ぬ

実家の飼い猫が死んでしまった。

 

死因は純血統の猫にありがちな遺伝的疾患と思われる。現に親戚の飼っていた兄弟猫も似たような症状を見せながら2年前に死んでいたそうだ。

 

この猫が死ぬにあたって、自分は人生で初めて生き物の死を見届けることになったので、その時の心情なんかを備忘録的に記しておく。

 

死の予兆

大抵の猫がそうであるように、うちの猫もよく吐く猫だった。

しかしながらここ半年ほどは血の混ざったものなんかもあり、それを見て先に死んだ兄弟猫の事を思い出しながらぼんやりとそろそろマズいんじゃないか、なんて考えていた。

 

食道に疾患があるらしく、年始あたりから餌を満足に食べられなくなった。固形の餌から老猫用の流動食に切り替えたが、一ヶ月もするとアバラは浮き出し、足取りもおぼつかなくなってきた。

この頃から家族はみなこの猫の先が長くないことを覚りだした。

 

今月、いよいよ今週かもしれないなんて連絡を受け、休みをとって実家に帰ることにした。最期を見届けたいと思った。

 

命日

帰省してから数日ほどは死にかけなりにちゅーるを舐めたりにゃーんと鳴いたりしていたのだが、ある日大人しくしていたと思ったら急に痙攣し始めた。

体を一直線に伸ばし、目を大きく見開き、口からは粘性の強いよだれを垂らしていた。

それは間違いなくうちの飼い猫なのだが、自分はそれをひどく不気味に思った。

 

いよいよもって数時間だと思い、痙攣する猫を膝に寝かせ、体を撫でてみる。時折起こる強い痙攣に驚き撫でる手が止まってしまう。

この時は(当然)対光反射はあり、温めてあげようと日向に出した時は瞳孔を細めていた。しかし、もう意識は無いようで、こちらの呼びかけや動きに反応する様子はなかった。

 

1時間半程で痙攣は収まったが、代わりに聞いたことのないような声で鳴き始めた。低く唸る、エンジンのような声だった。

部屋で動いているHDDの音と似てて少し面白かった。時々どちらがどちらか分からなくなるくらい。

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2TB×2

こんな事を考えていた。にゃんTB×2。

 

痙攣を始めてから猫は一切声を上げていなかったのだが、ここに来て鳴き声を出し始めた事で、目の前に横たわっているのが自分の猫だと改めて実感した。

驚くことに自分は痙攣する猫を自分の猫と考えずに、不気味な何かと思っていたようである。決してHDDねこちゃんではない。

声が聞こえると一気に猫が死にかけているという現実が自分の認識の中で大きくなっていく。痙攣しているのを見ているときには諦念で満たされ静かだった心が揺さぶられるのを感じた。

 

鳴き声は30分程で収まり、猫の呼吸がとぎれとぎれになる。浅い呼吸を一度、しばらく呼吸が止まり、また浅い呼吸。これの繰り返し。

 

この間見られた行動として、大きくあくびをする、水かきをするように足をかく、毛づくろいをしようとする、というものがあった。

しばらくこれを繰り返した後に、猫は横たわったまま大きく伸びをして呼吸を止めて死んだ。

 

確認として心音と対光反射の有無を確かめる。間違いなく死んでいるということでぐったりとした猫を持ち上げ、予め段ボールと毛布で作っておいた棺桶に丸めて収めた。

目は上下それぞれのまぶたを親指と人差指でつまんで寄せ、しばらく固定しておくとそこそこに閉じる。やはり目が開いたままというのは少し怖い。

ぐったりとした猫は持ち上げるととても不安定で、ぐらぐらと手足、頭を地面に向けて揺らしていた。100万回生きた猫でおんぶ紐で殺された猫については「ぐらぐらの頭になっ」たとあったけれど、あれはこういう状態を指すのかと納得した。

 

一時間ほどで猫は冷たくなった。

 

猫が死んでから

しばらくは死の目撃という人生初の体験を自分で不思議に思っていた。

 

その後、もう二度と使われないキャットタワーや餌皿のような持ち主不在の物を見て、ようやく猫の死を受け入れた。

猫が痙攣を始めてから3時間ほど見守って、死ぬ瞬間も目を離していなかったにも関わらず、猫の死を一番認識したのは遺された物を見たときだった。

 

見た目は生前と殆ど変わらずまだほんのり温かくて呼べば起きてくれそうな死体より、家族が少しでも栄養を摂ってもらおうとして大量に買った色んな味のちゅーるや、猫の毛が大量に付着した毛布、何袋もストックされている猫砂の方が"二度と"使われないという点で死の不可逆性を強く自分に訴えかけていた。

 

それらが自分の視界に入ることを避けるように、私は外出した。

せっかくの帰省ということで近所の公園を巡って子供の頃を思い出したりしていると、死んだ猫のことは殆ど気にならなくなった。なんて薄情なんだろう。

 

桜が綺麗だったので、一人でお花見をした。

このとき、選ぶお酒には留意した。休みをとっているとはいえ、平日の公園で一人で酒を飲んでいるやつは大体ヤバい奴だからだ。誰も見ていないだろうけれど。

人の目を気にし、ちょっと高めのスーパーに行って、オーガニックビールとスモークサーモンとクリームチーズのサンドイッチで花見をした。

どうでもいいこだわりに思えるかもしれないが、これががぶがぶくんだったらヤバい奴度は倍増するだろう。

 

帰宅すると私が棺桶に入れた猫が玄関に置いてあった。やっぱり死んでいた。

遺された物を見て、一度気にならなくなった猫の死がまた心に浮かんできた。

改めてまた、猫の死を受け止め直した。

 

ここで思ったのは先程

「死んだ猫のことは殆ど気にならなくなった」と感じたのは、正確には

「猫が死んだことを忘れてしまった」あるいは

「猫の死を受け入れきれずまだ生きているような気分になった」である、

ということ。

 

自分の体、動き、思考の中にはまだ間違いなく猫が生きている。

家を出る時にドアを開ける際には猫が外に飛び出さないように少ししかドアを開かないし、コンビニで知らない味のちゅーるを見かけたら思わず手が伸びるし、帰ってきてからはイヤホンのような猫に齧られたら困るものは蓋付きの小物箱にしまっている。

 

きっと家でコトリと物音が聞こえたら、猫が机から飛び降りた音と真っ先に思うだろう。

 

最後に

まだ肌寒い春、今日もまだ猫は玄関に置いてある。きっと明日にでも庭に埋めるだろう。私も休みが終われば帰省先から普段の家へ戻るだろう。

 

次はいつになるか分からないけれど、今度帰省した日、私がイヤホンを枕元に投げ出して寝ることが出来たら、猫は私の中でようやく死ねたことになる。

 

あるいは実は猫アレルギーである私がどこかに残っていた抜け毛で喘息を起こしてしまったら、私は、咳き込む私に人を馬鹿にしたような顔を擦り付ける、死にきれていない猫を幻視するかもしれない。

 

家族で唯一猫アレルギー持ちの自分が一番長く猫の存在の残滓を辿り続けるのだ。

 

私はまだ猫を看取りきれていないような気分でいる。早く逝ってくれ。